映画に泣かされる


渋谷のアップリンクドキュメンタリー映画チーズとうじ虫」を見た。上映+ 「個人で作るデジタル・ドキュメンタリーを劇場公開する」というテーマで菊池信之さん(整音)、原田徹さん(宣伝)のトークがあり、半分仕事で行った。そしたら、上映された「チーズとうじ虫」が大傑作だった。物語は「母の看病のために故郷に帰ってきた監督の加藤治代は、母親の病気が治る奇跡を信じ、撮影を始める。そこでカメラに収められたのは、限られた命を精一杯生きる母と、高齢の祖母と何気ない日常風景。母親の死後、肝心なものがなにひとつ撮れなかったという空白感から、思い出を辿る祖母と自身の心情を記録していく」というもの。

はじめの60分には肝心な出来事は何も記録されていない。カメラは手ぶれし、家の外観の水平もあっていない。本当に何気ないやりとりしかなく、感情的なシーンはない。ひとつひとつのシーンをつなぐのに、白い画面にタイトル(言葉)が浮かぶという手法がとられている。はじめの60分は、よく分からなかった。そして、突然母が亡くなり、お葬式になるが、まだ淡々としている。


母が亡くなりしばらくすると、監督は母の手帳を見つめ、母が予定に相撲を見にいくということを書いているのを知る。監督は、相撲を見にいきはしゃぐ。そこから突然、映画が色づく。祖母にカメラを向け、祖母の心情を記録する。そこでの会話がとてもいい。残り30分のところで、映画に感情が宿り、それは前半の60分にも波及する。何も「撮れなかったこと」を際立たせ、何も「撮れなかったこと」にも感情を与えていく。そうこれは死と向き合い、受け入れて行く映画だった。

この映画に、ドラマにあるようなシーンは何ひとつない。監督の泣いている姿は見られない。帰りの電車の中で、もう一度頭の中で映画を再生してみる。そこでふと思ってしまった。「撮れなかったもの」という言葉はトークショウでも使われていたが、「撮れなかったもの」とは、悲しみや母の苦しみ。死んで行く時だけを指すのだろうか。「撮れなかったもの」とは、「話したかったけど話せなかったこと」?/それとも、「伝えたかったけど伝えられなかった想い」?。だけど、その相手はもういないのだ。そんなことを思っていたら泣けた。


映画「チーズとうじ虫」公式サイト http://www.chee-uji.com/